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「幕末」の『専守防衛』を見直す!

薩摩は「薩英戦争」で英軍を撃退す!

〔「歴史通」2010.3「薩英戦争と下関戦争「常識のウソ」ホントは薩長が勝っていた!」作家 三野正洋氏〕

生麦事件とは,一八六二年(文久二年),横浜の生麦で薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件を指す」

「幕府はあわてて謝罪し,十万ポンド相当の賠償金を支払っているが,それでもイギリス側は満足せず,薩英戦争が勃発する事態になった」

「一方で薩摩藩はイギリス艦隊の来攻必至とみて準備を進めていた」

「六ヶ所の砲台(台場)を設え,これらに八十門の大砲を並べた」

「さらに独自に開発した機雷(機械水雷)まで設置したといわれている」

「そして八月,ついに大型戦列艦ユーリアラスを旗艦とした英艦隊七隻が錦江湾に姿を見せた」

「百門以上の艦砲を備えるイギリス海軍は,まず薩摩の汽船三隻を拿捕,火を放って沈めてしまった」

「この後,激しい風雨の中,砲撃戦が開始されたが,同時にイギリス側は多数のロケット弾を発射し,台場だけではなく鹿児島の町を攻撃する」

「この攻撃に対する対策はほとんどなかったものの,砲撃戦では薩摩軍が有利であった」

「理由は,戦闘が比較的近い距離で行われたこと,薩摩があらかじめ想定していた海域での戦いとなったことの二点である」

「台場は次々と損害を出したものの,その砲台は旗艦に攻撃を集中した」

「これによりユーリアラスの艦長,副長とも砲弾の炸裂により戦死.他の艦にも被弾が続出する.合計百二門の艦載砲を持ったイギリス軍の戦力が上回っていたが,薩摩は予想以上の善戦をみせた」…「藩の建物や民家を焼かれるなどの損害は薩摩が多かったものの,死傷者の数はイギリス側が薩摩の八倍に達している」

薩摩側:死者三,負傷五

英軍側:死者十八,負傷四十五.

旗艦は中破し,正副艦長戦死は東洋で初めての被害で衝撃的だった様だ」

〔ロバート・フォーチュン「幕末日本探訪記」〕

「日本は自国内に生活必需品や贅沢品のすべてを供給できるだけのものを十分に持っている」

〔「歴史通」2010.3「薩英戦争と下関戦争「常識のウソ」ホントは薩長が勝っていた!」作家:三野正洋氏〕

「この頃のイギリス,アメリカ,他のヨーロッパの国々は「相手が強いと知れば交渉,弱いとみれば力によって権益を奪う」政策をとっていた.実力行使もためらわない,まさにかつて言われたところの“砲艦外交”であった」略

一八六四年(元治元年)八月五日,英仏蘭米「四国連合艦隊」は長州攻撃開始.長州藩は兵力の大半を京都に送っており,同じ年の七月には「蛤御門の変」(禁門戦争)を惹起していた.連合軍の迎撃に動員できたのは二千人しかなく,山縣有朋率いる「奇兵隊」「膺徴隊」六百人が奮戦した.

連合艦隊は,長州藩の砲台を全滅させると,海兵隊,陸戦隊を上陸させ,これらを占領する」

「その一方で,上陸軍は物陰から飛来する狙撃手の銃弾に悩まされ,早々に撤収を決め,戦利品の青銅砲を持ち去った」

「しかし,この戦闘における人的被害は,後述のごとく連合軍側にとって決して軽いものではなかった」

連合艦隊は,関門海峡の最狭部(わずか六百メートル)には近づかず,薩英戦争の教訓を活かして,長州藩の砲台の射程外から攻撃した.それでも数隻が命中弾を受けている」

死傷者;

長州側:四十七,連合側:六十二

「これらは砲撃戦によるものより,上陸したあとに行われた陸上戦闘によって生じたものと思われる.とくに短艇(船載のボート)から砂浜に上陸するときに狙撃され,死傷者を出した」

長州藩は薩摩と同様,幕府に肩代わりさせる形で三百万ドルという巨額の賠償金を払ったものの,彦島の引き渡しは拒否することができた.交渉にのぞんだのは幕末の志士の一人,高杉晋作である」

栄誉礼譜」

http://m.youtube.com/watch?sns=gr&v=qarxktWRj2Y

[馬関戦争]

〔「近代日本史体系」〕

「元治元年八月二日,豊後水道の姫島に集結した四国連合艦隊は,イギリス海軍中将A=L=キューパーを総司令官,フランス海軍少将B=ジョーレスを副司令官とし,計十七隻の軍艦から編成されていた」

「ロンドンで自藩の危機を知って帰国した伊藤博文井上馨の必死の工作も空しく,五日午後四時ついに戦端が開かれ,日没までに前田砲台は壊滅的打撃をうけて機能を失った.翌六日は艦隊側が二○○○余名を前田砲台近くに上陸させ,陸戦となった」

奇兵隊軍監山県有朋のひきいる壇之浦砲台の守備兵も応援にかけつけ,イギリス兵らと奇兵・膺徴両隊」(600余名)「とのあいだではげしい銃撃戦が展開され,指揮官アレキサンダー大佐と山県有朋はともに負傷した」

〔アルフレッド・ルサン「フランス士官の下関海戦記」〕

『だが,この征服によって多大の損害を被っていたのも事実である.八名の死者と四十名ほどの負傷者が次々と岸辺に運ばれた.負傷者の中には二名のイギリス海兵隊将校とアレクサンダー大佐自身が含まれていた.大佐は行動のさなかに脚に銃弾を受け,指揮をスーザー中佐にゆだねていた』

『だが,初めの砲撃によって我が方にも損害が発生していた.ターター号の準士官が重傷を負い,ラ・デュプレクス号の甲板では数人の兵がなぎ倒された.そして,その時,艦橋のド・フランリュー司令官のそばにいた操舵長は弾丸に首を吹き飛ばされたのだった』

『だが,懲罰の効き目はあったにしても,イギリス側もまた,大きな損害を出していた.何本ものマストが砲弾によって傷つき,燃料も底を尽き始めていた』

長州藩の敗北は明らかであったが,この戦争で最も勇敢に戦ったのは奇兵隊などの民兵組織であった.藩庁は外国の来襲に備えて,早くから準備していた.一般民衆に長脇差を許可し,僧侶・農商の別なく武技を習うことを許した.対外防衛には民衆の協力なしには,武士階級だけでは到底まに合わぬと悟っていたようである.事実,上陸した英軍の指揮官アレキサンダー大佐は,民兵のゲリラ戦に遭遇して,首都の山口まで進攻することはできず,部隊をまとめて早々に軍艦に引き揚げた.キューパー司令長官は本国への報告に

「長州を占領することは,全東洋に現存する我が艦隊の全勢力を糾合しても不可能である」

と書いた」

■勇ましい敵基地攻撃論だが、攻撃目標がわからない

(dot. - 03月14日 11:33)